ラ・ネージュを出ると矢沢は気を利かせたつもりで通りでタクシーを拾い、「ごゆっくり」と言い残して帰って行った。GW前といってもこの時期の夜間は思いのほか夜気が冷たい。ドレスに毛皮のコートを羽織った美佐江ママは携帯で系列のパブへ連絡を入れた。
「寒いねぇ。早く行こう」
と言って腕にしがみついてきた。「同伴みたいだな」というと、「自分の店じゃ手当ては出ないわ」と言って笑った。
英国風の内装のそのパブは、小さなステージがあってドラムスやアンプが隅にあった。ママが店内に入ると、数人の女の子が「お疲れ様です」と言ってお辞儀をし、店長風の若者が小声でママに話しかけ、奥の個室風に仕切られたテーブルへと案内された。そして手際よく、ビールとオードブルが運ばれてきた。
「教育がいいねぇ」
「この世界、緩めるととことん緩んじゃうからね」
と言って美佐江ママは最初の一杯を飲み干した。
「ねぇ、オケイ(恵子)とはいつから?」
「聞いたんだ?」
「勘よ、オケイはそういうこと言わないし」
「じゃママの誘導尋問に嵌まったってことか」
「素直なんだから」
と言ってシガレットケースのメンソールに火を付けた。
「でもいろいろ言ってたな」 
「どんなこと?」
「幹部が自殺しちゃったとか、上場は中止になっちゃったとか」
「そうか・・・」
「それ以上、何かあるん?」
「あると言えばあるけど、ないと言えばない」
「カオル、意味深だなぁ・・・」
そう言って女の子を呼び寄せ、「白とアンチョビ」をオーダーした。
「ワイン、飲むでしょ?」
「この店はオーダーが先なんだぁ?」
「そっ!お客を見るのよ」
そう言ってウインクして見せた。
「今夜は飲もっ!ね?じゃちょっと髪下ろしてくるね」
そう言うと席を立ってカウンターの奥に消えた。


  10分ほどして、ロングにしてルージュの色を変え、タイトなジーンズ姿の美佐江が現れた。
「まるで別人だな」
「惚れちゃう?」
「御亭主いなけりゃね」
「いないよ、いまは」
「まさか別れた?」
「それはないけど、別居中。もう3ヶ月も口きいてないわ」
「どうして?」
「だってお店の子と」
「バレたの?」
「もう10年とか。頭にきちゃって」
「10年かぁ・・・」
8歳年下のご主人を恵子と争って略奪婚したという話を以前に聞いていた。
「ねぇ、久しぶりに歌おうか。ホテル・カリフォルニア。弾いてよ」
「ギターある?」
「遠藤君!ギター貸して」
「はい、335でよければ。久しぶりですね。社長とやるんですね?」
「昔を思い出しちゃった」
「今夜、ママのホテル・・・聴けるなんて。社長もプロ級だし、黄金コンビ復活ですね」
「カオル、ハモるよね?」
そう言うと、小さなステージにマイクを2本用意させた。

 その夜の美佐江ママはいつになくハイになった。そして「景気づけに」といって白ワインを2杯ほど一気に飲み干してステージへ。15人ほどの客とスタッフから拍手され、投げキッスをした。チューニングのあと何度かイントロをリフレインして、ママは歌詞をスタンドに立てた。多少は誤魔化しもあったけど、申し分のない出来でサビへ。「Welcome to the hotel California,such a lovely place(such a lovely place),such a lovely face・・・」久しぶりとは思えないハーモニーも決まった。
 ママがハイになると店が盛り上がる。確かに外山商事は美佐江ママで持ってるとひしひしと感じた。上機嫌で「少し歩こう」といって店をでたあと、冷たい夜気の中、飲み屋が数件集まる通りを歩いた。一歩外に出ると、賑やかなはずのその通りに人影はほとんどなく、呼び込みのおにいさんも手持無沙汰で、ウロウロと行ったり来たりで、「ママ、同伴ですか?いいですね」と声を掛けてきた。
「カオル、浮気ってどんな感じ?」
「罪悪感」
「だよね、でもそれって密の味なんでしょ?」
「かも」
「こうして歩いてて、帰りたくないって言ったら落ちるの?」
「他に選択肢、ないから」
「そっかぁ・・・火遊び、しちゃおうか?」
「恵子から横取りする気分?」
「私は悪女だからねぇ」

飲み屋街を抜けて国道に出ると、お互いに寡黙になってその先のホテルを目指した。夜11時を回っていてフロントで多少強引にツインの部屋をとりチェックイン。物悲しそうな夜景の見える通り沿いの部屋で、しばし窓に映りこむ二人の姿を見ていた。
「キスだけして、浮気の気分になろうよ」
「それだけで、ご満足ですか?」
「カオルは?欲しければいいよ」
「ママは?どうなの?」
「私はいま、運命に身を任せてみるつもりよ。私の意思は関係なくて・・・」
「じゃ、どうなっても、いいんだ?」
「恨んだりはしないよ」
「なら、有りふれた関係は止めようよ」
「どういう意味?」
「もし、そういう関係になるとしたら、その時はお互いに全部捨てる覚悟ができてるという・・・」
「それ、火遊びじゃないじゃん」
「ママと寝るってそういうことだろ?」
「ああ、カオル、キスして」
美佐江ママの頬を一筋の涙が伝った。そして窓際に立ったまま、長い抱擁を交わした。「寂しい」と美佐江ママは漏らし、「俺も」と応えた。けれどもそれは、交わる理由にはならなかった。