その年の桜は例年になく遅咲きだった。特別冬が厳しかったということもなかったが、3月後半になって寒さがぶり返して、季節外れの雪も降ったりで、開花が遅れた。4月に入り、急転直下で子会社の買収話が進み始めた頃、手土産を持参して有坂氏を訪ねた。2度目の訪問だった。
「若社長、そんなことしないでくださいよ」
「いやいや、最初だけですから。ご遠慮なく」
「すみませんねぇ」
と有坂さんは紙袋からブランデーを取りだして目を細めた。
「お飲みになるんでしょう?」
「そりゃもう、仕事が仕事だったんで・・・。これ、高いんでしょう?」
「いい酒みたいですよね。親父が好きな銘柄なんでよ」
「ほぉう、先生が。有り難く今夜から頂きます」
「それから、これは奥様に」
そう言って家族がお気に入りだったケーキ店の包みを差し出した。
「ご丁寧にどうも。何かしら?」
「ブランデーケーキです。ご主人はブランデーだから不公平のないように」
そう言うと一気にその場の雰囲気が和んだ。

「もう満開ですかね」
応接間の前に小さな庭があって、そこには手入れされた丈の低い樹木が10本ほど植えられていた。その外側に運動公園の金網のフェンスがあり、通りに沿って満開の桜並木が一望できた。
「綺麗でしょう?ここはね、最高のお花見スポットなんですよ」
と奥様が言った。
「本当に。ご自宅に居ながらこの光景は・・・羨ましいですよ」
「東京のマンションを売って、土地を探しているときにね、家内の兄から宅地転換できるというんで、ここを見に来てね、それがちょうど満開の季節でね、気に入っちゃって、ここに建てたんですよ」
「これは、価値ありますよ」
「家なんて・・・そういうもんでしょう?」
ショートホープを深く吸い込んで大きく吐きだしながら有坂さんは言った。


  「若社長、清算、大変でしょう?」
「それが、吉田総業に身売り出来そうなんですよ」
「そうですか、この時期にねぇ。ついてますね」
「そう思いますか?ちょっと躊躇いもあるんですけど・・・」
「いや、売りたくても売れないし、買い手がついて初めて売れるわけで・・・株と一緒ですよ」
「そういうもんですかね?」
「そう言うもんですよ。特に今は、この酷い状況だからなおさらじゃないですか?」
「そうは思うんですけどね・・・」
有坂さんは躊躇いの気持ちを忖度しながらの言い回しで言った。
「先のことを考えれば躊躇いは消えますよ」

小一時間ほど雑談をしてから、これからどうすればいいのか質問した。
「定期的に教えてもらえますか?」
「そんな時間は取れますか?」
「やり繰りします。此処までは20分ほどですし」
「できればザラバでないと」
「では週2回ほど通いますからお願いできますか?昼までには来ます。後場寄りから見れますからね」
「それがいい」
「でも、お昼時にお邪魔してご迷惑じゃないですか?」
「いや、大丈夫、気にせずに来ていただいて結構ですから」
「ありがとうございます」
「それで・・・パソコンは?」
「私の部屋にありますよ。見て行きますか?」
そう言うと奥まった四畳半ほどの部屋に案内してくれた。そこには、旧型のパソコンと小さなCRTモニターがあった。
「失礼ですけどこれで?目が悪くなりますよ」
「でも、私には十分なんで・・・」
今はみんなこれになっちゃってねぇ・・・と有坂さんは苦笑いした。
「これになってから随分と変わったんですよ。個人がディーラーみたいになっちゃってね」
「そうでしょうね・・・。分りました。それからネット回線はどれですか?」
「これかな?」
「わかりました。じゃ、次回に準備してきます」
「なにか必要ですか?」
「いえいえ、ちょっと細工させてもらうだけです」
「ああ、若社長はプロですからね」
「はい。それと有坂さん、次回から師匠と呼ばせてください」
「とんでもないっ!そんなのは・・・」
「いえいえ。もちろん尊敬の意味もあるんですけど、ア・リ・サ・カ・サ・ンって6文字でしょう?シショウは3文字です。会話がスムーズなんですよ」
「じゃ、私はワカで」
こうして有坂氏への弟子入りが正式に決まった。初めて師匠を持つ身になったのだった。