師匠

個人投資家、灘株太郎の自伝的連載小説

梅雨ももうすぐ終わるのか?と思わせる暑い日になった。前日までの雨のせいで、外気は湿度に満たされていて、滲み出る汗を決して乾かすことはなかった。車の外気温計は34度と表示され、日差しは昼が近づくにつれ強さを増した。いつものように昼までには師匠宅に着いたが、「今日は蒸しますね」といって、奥様は冷たい麦茶を振る舞ってくれた。
「若社長のお陰で、最近主人が元気良いんですよ」
「そうですか?」
「いままで、時折お父様がゴルフをお誘いくださる以外、外出もしようとしなかったし・・・」
「でも、ご迷惑ばかりかけちゃって」
「とんでもない。私は若社長に感謝してますもの・・・」
他人から「感謝」などという言葉を掛けられたのは何時以来だったろうか?と思った。感謝してるのはこちらのほうなのに、そうした言葉を掛けられ突発的に目頭が熱くなった。
「もう少し、お世話になりますね」
「いんですよ、ずっといらしてね」
奥様の、決して浅くはない皺が刻まれた目尻が緩み、何かを投げかけられたような、何かの合図のような頬笑みが母親のような暖かさを放った。奥様は左足が多少不自由で、不規則な歩行だった。何か特別な理由があるのだろうけど、そうした影を微塵も感じさせない、暖かな頬笑みだった。


  「じゃ、売りましょうか」
そう言って食事を終えた師匠は、モニター前に陣取ってショートホープに火を点けた。
「前場に、結構上昇してるから、もう少し待ったほうがいいんじゃ?」
「若、足速いから、早く売りましょう」
師匠の言葉に促されて、878円を10000株空売りする。しかし、その直後、株価は上げ足を速め、900円の手前まで上り詰めた。
「師匠、含み損が20万に・・・・」
「そうだねぇ・・・」
「これじゃ、一旦損切りして、もっと上で空売りしないと・・・」
「どうして?」
「なんだか、気分が・・・もっと負けそうで・・・」
「若、まだ1円も負けてないでしょ」
「それはそうですけど・・・」
初めての空売り体験は鮮烈だった。いままで、株を買って値上がりするのを観て、そのスピードがどれだけ速かろうと、もちろん利益が増えるのだから一向に気にも留めなかった。株を買ったら早く上昇するに越したことはないし、上げ足の速さは其の銘柄の人気の証拠だ、と思った。けれども、空売りしてみると、その上昇スピードが其のまま恐怖の反映だった。時折入る万株単位の成り行き買いは、一気に恐怖心を掻き立てる。多分、自分は不安そうな顔つきで、モニターを眺めてるに違いない・・・そんな顔は師匠に覗かれたくない、と思っていた。
 それでも師匠は・・・次々にショートホープに火を点けてじっと板を眺めてる。師匠との間に大した会話はなく、2時間近くの間、板を見続けた。一旦は890円まで売られた株価はそこからさらに上げ足を強め2時前には910円に迫りそして、2時半頃になると高値914円をつけた。
「よし、今日が天井だな」
高値を獲ってきた直後に師匠は沈黙を破った。
「若、大引けまで利食いされますよ。利食いが150万株以上出てるからね。」
株価が上昇の過程で、師匠は売りの注文回数をカウントし、指し値の売りの5円刻みの売り数を観ていた。
「絵に描いたような、値動きしてくれたんで、大引けまでは成り行き売りも出ますよ」
そう解説した直後に30万株以上の成り行き売りが飛び出して、後は914円から10分程度の間に870円を割り込むレベルになり、含み損は含み益に変わった。唖然としながら板を観ていると、背中がゾクゾクとしてきて、何も言葉を発することが出来なかった。目の前で、繰り広げられたプロの見立ては圧巻の一言だった。これが30年以上、魑魅魍魎の跋扈する株式市場の現場で生きてきたプロの臭覚なのか、と圧倒されずにはいられなかった。大引けは862円。約50円ほどの長い上髭を点けた十字線になった。
「トンボになったね」
「・・・」
「よかった、よかった。ヒヤヒヤしながら見てたけど、トンボになってよかったですよ、若」
「ヒヤヒヤしてたんですか?」
「そりゃそうですよ。もうドキドキで」
師匠のそんな言葉は到底信じられなかった。何もかもお見通しという迫力が、師匠の鋭い板を観る目つきが、少なくとも横で不安におののいている素人を圧倒していたのだ。
「師匠、言葉が出ませんよ・・・」
「若、どうかしましたか?」
大引けを迎えて、引け値が確定した後のショートホープを燻らせる師匠の表情は、いつもの温和な人懐こさも感じられる老人に戻っていた。


   モニターを設置してある師匠の書斎部屋は冷房の効きがすこぶる良くて、大引けを迎えた頃には半袖の両腕が冷たくなるほどだった。いつものように3時を回ると奥様が師匠には紅茶を、そして自分には珈琲を入れて運んでくるのだが、今日は「アイス珈琲ですよ」と言って、冷えた水羊羹とともに出してくれた。「あなた、この部屋煙草が・・・」という言うと窓を開け換気すると、生温かい外気が一気に部屋の中に溢れた。「暑いじゃないか!」師匠は不満そうに言ったが、奥様は意に介さなかった。
「師匠、値動きが判ってたんですか?」
「判ってはいないけど、二通りの予想はしてましたよ。昨日の足を観てるからね」
「昨日は上がりませんでしたよね?」
「2円高の陽線のコマね」
「それで判ったんですか?」
「だから昨日は天井付近で売り買い拮抗してたってことでしょ」
「なるほど・・・」
「で、今日の前場に買いあげてくるようならば、目先の売り物をこなすことはしないっていうこと」
「はぁ・・・・」
「だから前場に買い上がったなら本来売りべき玉が出ないってことだからね。だから前場に買いあげたら今日が天井の可能性がぐんと高い。だから売っても大丈夫という計算が成り立つんです。でも、前場に売りに押されたら、下がり方にもよるけれど、その利食いをこなす可能性があるから、売れないんです」
 空売りを始めるようになって、こうした師匠の解説を都度聞くようになったけれど、最初は何を言ってるのかさえ、その本質はイメージ出来なかった。同時にこのレベルになれなければ勝てないのか、と思うと毎回のように気が重くなってしまった。けれども、この時はとにかく師匠の一言一句を聞き逃すまいと、必死で耳を傾けてその意味を理解しようとした。師匠は上機嫌で1時間ほど、天井付近での売りと買いに関する需給を解説した。興が乗った解説の腰を折るつもりはなかったけれど、5時前には会社に戻らねばならず、「また週末に」と言って引き上げようとすると、「建て玉はそのままで」と師匠は最後に言った。
「このままで大丈夫なんですね?」
「大丈夫」
と師匠は大きく頷いた。この日の16万円の含み益が、最初の空売りの成果となった。


 

 7月に入ると3月の底打ちから上げ続けた主力銘柄の動きに明らかに異変が感じられた。師匠の言うように第一週は打って変わって上げ幅を拡大した銘柄が多数出現し、手仕舞いしてしまった野村証券やキヤノンも例外ではなかった。師匠とモニターを見ながら、ポジションを持っていないことを悔やんだりしていたけれど、師匠はニヤニヤと笑うばかりで、ショートホープを燻らせていた。
「若、そろそろチャンスですよ」
師匠はそう言うと、7月の値動きを説明し始めた。
「7月は・・・中間決算を終えた海外勢が決まって繋ぎ売りを入れてくるんですよ。もとより彼らは夏場の株式市場が弱いことを知っているので、決して無理はしてこない。運用者の多くは7月後半からの夏休みを取ったりするんで、彼らも組織的に動けなくなるから守りに入る。上下どちらに転んでも損しないポジションを作ってくるわけですよ」
「繋ぎ売りって?」
「現物株のポジションリスクをヘッジするために空売りを入れてくる。そうしておけば夏場に下がっても獲れるわけです」
「でも、現物の株価も下がるので同じことでは?」
「いや、違う。現物株はどう転んでも年末の決算までには上昇するわけで、放置すればいい。けれども9月あたりまでは、戻り相場は下がるのが基本だから空売りは有利なんです」
「なるほど・・・」
「若は空売りしないの?」
「怖いっていうのでやったことないですよ」
「じゃ、やってみますか」
 「できますか?」
「できるできる」
それから師匠は空売りに関する説明を2時間ほど力説して、相場は週末の大引けとなってしまった。


   師匠の説明は、とても素人投資家には理解できない難解なルールや実態も含まれていたから、十分に理解できた自信はなかった。ただ、海外の投資銀行のやっていることはすなわち、半分以上制度の盲点を突いた取引だということだ。個人投資家は値動きが激しい小型株やIPO銘柄を好んで取引する傾向がある。資金量も限られるから短期間で2倍、3倍と値上がりするような銘柄を物色したがる。投資銀行はそう言った銘柄の企業の大株主や時には社長や役員、持ち株会などから株式を借りてきて高値から容赦なく売りを浴びせてくる。もちろん、信用貸借銘柄選定を受けていないので、個人投資家は空売りすることが出来ない。そうなると、すでに株を借りられた時点で、海外投資銀行やヘッジファンドにとっては膨大な利益が約束されたも同然なのだ。もちろんIPOに際しては様々な資本政策がとられるので、平で借り株するだけとは限らないけれど、いずれにしても借りたら勝ちだと、師匠は言った。
 また業績も悪く資金繰りの窮している企業の新株予約権付き社債の発行を外資が堂々と引き受けるのは、新株予約権の条件にもよるが、株価の推移を見ながら大量の新株を任意に手にすることができる。つまり、空売りによって株価を叩いたところで予約権行使をすれば、かならず大きな利益を手にすることができるし、戻ったところで売りと同時に空売りを仕掛けると往復で獲れ、なおかつそうした銘柄は数年間、株数の激増で下値から這いあがれないとなる。そして問題なのは、そうした企業の株主は高額な貸株利率のために安易に貸し株に応じてしまうということだった。
「では、企業的に見れば、新株予約権付き転換社債を発行するような会社は危険ですね」
「一概には言えないけど、大筋そういうことになりますね」
「でも、そうなると一旦上場してしまうと、会社は潰れんですよね?」
「まぁ、法令違反しない限りは絶対に潰れないんですわ。いろいろ資金調達の方法があるからね」
「残念だったなぁ・・・・」
「若、取り返せばいいんですよ」

 かつて師匠は野村を退社した後、中堅の証券会社に請われて法人部門に席を置いたが、そこでは盛んに借株の営業をやっていたと。そういう業務が収益の馬鹿にならないウエイトを占めていたので、何度か現場にも立ち会ったことがあると。マザーズやジャスダックに上場してる企業の経営者は概して、その辺の知識が貧しく、かつ安定して配当する状態でもないので持ち株が年数パーセントで運用出来るという話に飛びついたと言った。
「私に言わせれば、そんな経営者の企業など価値ないんですわ」
師匠ははっきりとそう断言した。
「若、買いは家まで売りは墓場まで、という格言知ってますか?」
「それ、聞いたことが・・・確か素人が空売りをするなって・・・」
「そうそう。でもね、何の知識もなく株をやるなら、買いも売りも同じですよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです。ただ、銘柄さえ間違えなければ、ですけどね」
「じゃ、師匠、いままでの話からすると、いま、野村を空売りするチャンスじゃ?」
「そういうことになりますね。若、来週火曜に来るでしょう?」
「そのつもりだけど・・・」
「じゃ、その時に。ポジション建てないでいてくださいよ」
こうして翌週に師匠の指導で初めて空売りに挑むことになった。


   その週末は、梅雨明けを思わせる厳しい暑さとなり、前日まで降り続いた雨の影響で異常な湿度に見舞われ不快だった。土曜は久しぶりに出社することなく家でゴロゴロとしながら過ごし、二女が帰宅すると夕食に誘った。もうすぐ土用なので鰻がいいと美樹のリクエストに応え、投資成績が良好だったことも手伝って、地元では高級な割烹料亭の座敷を予約して出かけた。
「パパ、凄い高そうなお店、大丈夫?」
と美樹が小声で話しかけてくる。
「何度か来たことあるから、だいたいわかってる。それに今不況で暇だろうからサービスいいよ、きっと」
中年の仲居さんは以前に見かけた品のある物腰の女性だった。「今日はお運びいただきましてありがとうございます」と丁重に挨拶をしてから、「どうなさいますか?」と短い世間話の後に続けた。
「あの、以前にコース料理が・・・」
「はい」
「流鏑馬でしたっけ?変わった名前の・・・」
「はいございます」
「そこに鰻を入れてくれませんか?最後はお重でお願いします」
「かわいい方もそれでよろしゅうございますか?」
「久しぶりに親子の対話なんで・・・」
そう言うと、「いいお父様でお幸せね」と声を掛けられ美樹ははにかんだ。

「まだ、受験、迷ってるの?」
「う~ん・・・」
「ハウスキーパーの上原さんとは上手く行ってる?」
「あの人、結構冗談も言うし、意外に面白いんだよ」
「そうか」
「ねぇ、夏休みは東京に行ってもいい?」
「いいよ。受験するなら夏期講習でも受けたら?」
「ママの世話もしたいし・・・でも夏期講習はお金かかるから・・・」
「じゃ夏休みの間に、自分のやりたいことをきちんと決めること。それが約束できるならずっと東京でもいいよ」
「わかった」
美樹は初めて口にする本格的な和食のコース料理に、過剰に反応してみせた。運ばれる料理の一品一品に感想を述べはしゃいだ。だが、美樹は6月あたりから急に成績が落ち、ひと月で6日も学校を休んでいた。朝は朝食を取って家を出るのだが、登校拒否状態になって出社を見計らって午前中に家に戻り、自室に引き籠っていた。女房の病気治療のためとはいえ、家族が分断状態で二重生活を強いられていたことも、受験生にとっては予想以上の重荷になっていたのだろう。けれど、それ以上に圧倒的に家族としての対話が不足していたし、大学へ行くのか、夢である漫画家修行をすべきなのか、誰にも本心を打ち明けることができずに悩んだのだろう。家族が大変な時に、自分だけ好きな道を進むのは我儘だと自らの希望を打ち消すのに必死だった。だが、そうすればするほど、やる気を失った。
けれど、その時は、そんな美樹の気持ちなど、まったく分らなかったのだ。目の前には、美味しいとはしゃぐ若さが眩しいほどの娘の笑顔があった。
 
 

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