師匠

個人投資家、灘株太郎の自伝的連載小説

「どうして買うかと言うと、若は1500円で私が買い取るという前提があるからでしょ?」
「それはそうですよ」
「それはまさに株と同じじゃないですか。株だって理由はどうあれもっと上がる、目標は・・・、なんて思うからこそ買うんですから」
「そんなの、当たり前ですよ」
「そう、当たり前と言いきれない部分を見ないからそういうことをするんです。冷静に考えると、ショートホープの原価って恐らく10円とか20円くらいのレベルですよ。それに税金があるからもう少し上になりますけど。それを若はなんの躊躇いもなく1000円で買ってしまう・・・」
師匠は続けた。もしも、タバコの価格が将来何らかの理由で一箱2000円、3000円と値上がりが見込めるなら、1000円で買うことに合理性が生まれ、一つの根拠になって、所謂投資になると。そのタバコを私が1500円で買い取るということにも合理性が出て、そうなった時に初めて成立する理屈であると。けれども、そう言うことがない現在、まず1000円で買うことに何の合理性はなくて、私が買わないと言ったら大損することになると。
「でも、それは詐欺みたいなもんで・・・」
「そうですね。確かにそうです。ただ、もしも・・・」
もしも140円という定価で買っていたらそうなっても損はしないと師匠は言った。
「師匠、それこそ屁理屈じゃないの?」
「確かに、そうですけど、それこそが株式相場じゃないですか?」
「・・・・・」
これが師匠との最初のやり取りだった。師匠は、何かが言いたいはずだと、後になってから徐々にそう思うようになったが、その時は「こんな話をして何になる」という心境で師匠と対峙していた。いままで、株価について考えたことは、あまりなかったし、株式指標を見てPER10なら安いとかPBR0.8なら割安とか、株式業界の常識とされるそう言う見方に対して、ただ鵜呑みにするだけだった。


  「若、株価というのは、此処で言う1000円とか1500円なんですよ」
「そうですかね」
「そういうものです。だからそれが500円になっても2000円になっても、空想の価格だってことを覚えておいてください」
「では、師匠、何を根拠に株価は空想価格になるんです?」
「あはははっ、それは若、簡単なこと」
「簡単?」
「そうですよ。需要と供給・・・若は経済学部でしたよね?ご専門なんじゃ?」
「・・・・・」
とにかく、師匠の言動の一つ一つが気に障った。この業界で何十年も生きてきたプロだということは理解しているし、その師匠の目からみたら、自分がいかにも素人で、そして幼稚な考え方しかできていないように見えるだろう。けれども、もう少し株取引に関する技術的な助言を期待していたから、禅問答のようなやり取りは御免こうむりたかった。

 師匠は淡々とした口調で話す。時には笑みを浮かべながら相手の物言いを引きだすように会話をする人だと思った。けれども、真っ向から否定することはなかったし、話の内容に説得力はそれなりにあった。だが、こうしている間にも株式相場は動いていて、買い持ちしている銘柄の株価が気になって仕方なかったし、できれば取引画面を見ながら的確なアドバイスが欲しいと思っていた。自分には時間がないし、できるだけ早く株式投資で利益を積み上げて、当面の費用を捻出しなければならなかった。
「株価は常に、買い手と売り手の希望価格の均衡で商いが成立しているんですよ」
「それはわかります」
「ってことはですよ、その価格で買いたい人がいて売りたい人がいるからその株価なんですよ」
「・・・・・」
「相場というのはそうして空想価格で株をやり取りする場所なんです」
「そんなもんですか」
「若、このことは肝に銘じておいてくださいね。でないと、気持ちを整理できなくなるからね」

 今になって思えば、師匠のこの話は「株式投資の基本中の基本」だと無条件に受け入れることができる。そして、このことが理解できていないと、相場で起こる様々な不条理に対して気持ちが折れてしまうのだ。「相場にはどんなことでも起こりうる」と師匠は言った。そのことは、どんな指南書にもどんな投資顧問も、書いてないしアドバイスすることもない。だから、株式相場を齧った個人は何年もの間理解しないままに、不条理な値動きに一喜一憂するし、時には全財産を失って退場することもある。そうなれば、「株なんかやってられん」と思うだろうし、「俺はなんてツキのない人間なんだ」と嘆くだろう。けれども、もしも株価が「空想の価格」だとすれば、どんなことにでもなる可能性が容易に想定できる。そして、そのことを理解していたなら、そうなるリスクを事前に覚悟することができて、株式相場に対して斜に構えることもなくなるだろう。けれども、このときの俺は・・・・余りにも未熟だったし、真摯に相場と向き合ってこなかっただけに、反発心が芽生え、それは不信感となった。本来、そういう気持ちで相場に臨んではいけないものだ、という師匠の気持ちは到底理解できなかった。

 
   翌日、仕事の合間を縫って、封印していた株式投資を再開した。あのライブドア事件で関連株を含めて1000万以上を失って以来の投資だった。そして口座を開いて400万の残高を確認して、トヨタ株と三井物産株を信用で300万ずつ買い入れようとした時、以前と違った緊張感がよぎった。いままで、株を買う時に、緊張した記憶があまりなかったのだが、この時は板を見て、なかなか指し値ができない。指し値が怖いのだ。トヨタ株を3,650円で1000株買い指し値してみるが、売られてくると怖くなる。何度も外して指し値を変えて時間をかけて買い建てる。同様に戻り相場になると呼んだ三井物産も1,200円前後で2000株を買い建てた。
 以前と何かが違った。そして株を買うことが怖くなってる自分に気付いたのだ。かくも株式投資というのは、怖いものだったろうか?いま、どうしてその株価で買ったのだろうか?その株価はその後どうなるのだろう?リーマンショックで容赦なく下落したあと先の見えない経済状況で、どうして買えるというのか!第一、この株価は師匠曰く「空想」なんだと。と言うことは、今自分は、有りもしない企業価値を短時間で800万近くも買ったことになる・・・・。そして週末には、師匠の家に出向き、いろいろ聞かれ、批評されたら嫌だな、という不快な気持ちになった。
 
 

そうか、負け組なんだ・・・・改めてその言葉を聞いて現実を思い知らされた。
「じゃ、師匠、勝ち組って誰なの?」
「半数以上のファンドとか、額は大きくないけれど証券の自己売買部門とか。もちろん外資は軒並み勝ち組だろうね」
「国内の機関投資家ってどうなんです?」
「負けるのは稀だと思いますよ。でも、この期間は大した実績は出てないでしょう」
「個人はどうです?」
「それはね、さっきも言ったように投資期間にもよりますけど。基本的には9割は勝ててないでしょう」
「じゃ、株で勝とうというのは確立は僅かに10%しかない?」
「そうなりますな」
最初に投資した銘柄が急騰して勝った。所謂ビギナーズラックというやつだったけど、勝ってしまったことで勝てるものと信じ込み、株式投資をすれば資産を増やせると疑いもせずに嵌まった。最初は株式相場の怖さなど微塵も感じていなかったせいもあって、不思議と勝てる。もちろん負けることもあったけれど、ろくな知識もなく情報もなく、ましてやチャートさえ読めない無謀な株好きは勝ってしまうのだ。だから、株を初めて1年目はプラスになった。そのことを、じっくりと師匠に話した。
「師匠、どうして勝てたんでしょうね?」
「勝てたうちの半分はマグレでしょうね。でも半分は・・・・」
「理由があるんですか?」
「そう、たまたま多くの投資家と反対のポジションをとったからでしょうね。若社長の場合は偶然そうなっただけでしょうけど」
「反対?ですか」
「そう、みんなが売りと思ってる場面で若社長は買ってたんでしょう・・・・」
「意味がよくわからないなぁ・・・・」
「では、聞きますけど、どんなとき買ってました?株価が上昇を始めてかなり上がったところを、まだ上がると思って買ってませんでしたか?」
「言われればそんな感じかなぁ・・・・」
「けれど、そのあたりはみんな利食いをしたいし、売りたい位置だったでしょうねぇ」
「でも株価3倍なんて言ってたし・・・」

  「そういうね、ことを言うんですよ。いろいろね。で素人さんはその気になる。単純じゃないですよ、心理作用ですから」
「というと?」
「心理ってのは・・・人間は馬鹿じゃないんでなかなか鵜呑みにしないんですよ。けれどその情報がどこかに残るんですね。で、ザラ場に向かうと値動きで思い出すんです。で、思い出したら最後、どんどんその気になってゆくんです」
「なるほど・・・・」
「そうやってザラ場の心理はころころと変わるんです。けれど、板なんか見てる投資家は少数ですから、翌日に上がったら見てなかった投資家がまだ上があるって思うわけですよ」
「はぁ・・・・」
「でもね、プロの目はちょっと違うんです」
「違うの?」
「たとえばダラダラと下げてきたときに急騰することがあるでしょ?一気に買いが入る・・・・」
「ありますね」
「あれは心理の逆を突いてくるわけですよ。みんなが駄目だと思ってるときに急にそうなると、一斉に心理の反転が起こってそれまでの意に反して買いに走る。そこを狙うわけですから」
「でも、そういうの、怖いでしょうねぇ」
「いやいや、怖くないんです。資金量があればね」
「そう言うもんですか?」
「そう言うもんです」
 師匠は話に興が乗ってくると立て続けにショートホープに火を付ける。所謂チェーンスモーカーだった。その時、奥さんが珈琲とブランデーケーキを持ってきてくれた。
「あなた、吸い過ぎですよ」
テーブルの灰皿に1時間ほどで10本近い吸殻があった。
「換気しますよ」
と言って奥さんが 部屋の窓を一斉に開け、湿気を含んだ生温かい外気が部屋中を満たした。

  「若社長、この人の言うことは話半分で聞いて下さいね」と奥さんが言うと、「何言ってるんだ!」と師匠は不機嫌になった。
「この人、大負けしたことがあるんですよ。それも何度も」
と言って奥さんは笑みを浮かべた。
「一番負けた時は会社から戻って大穴を空けたって喚いて、大の男が泣いてたんですよ」
「そういうことだってあるんだ!いいからお前は下がりなさいよ」
「はい、はい」
奥さんは「ごゆっくり」と声掛けして出て行った。
「師匠も負けるんですね?」
「当たり前ですよ。相場なんだから。まったく余計なことを・・・・」
そう言いながら運ばれた珈琲を音を立てて啜り、新しいタバコに火を点けた。


  「ところで若社長は、株価というのを信じますか?」
「まぁ、実際にその価格で取引されてるわけなので・・・・」
「私はね、まったく信じてないんですよ」
師匠は意外なことを口走った。
「だって、1000円の株は実際に1000円ってことでしょう?」
「でも1000円の価値があるなんて誰も保証してませんよ」
「それはそうですけど、取引価格は実売価格だからそれでいいんじゃ?」
「良くないですよ。若社長、それじゃ勝てないはずだ」
師匠はいままでになく、目つきが鋭くなり、若干の厳しさ混じりの口調になった。
「よく、フェアバリューとか、株価指標でPERとかPBR、それに様々な指標もあって御託宣を並べてますが、そういうのは全部忘れてください」
「それも意味がわからないなぁ・・・・。だいいち、指標がないと買いようがないですよ。判断できないじゃないですか!」
師匠はポケットから封をきっていないショートホープを取り出してみせた。
「若社長は・・・・」
「師匠、若(ワカ)でいいです。話を簡潔にしましょう」
「では、若はこのタバコ1000円と言われたら買いますか?」
「それ、確か140円ですよね?買いませんよ」
「じゃ私が若に1500円で買い取りますから1000円で買ってきて、と頼んだらどうします?」
「・・・・」
「買わないの?」
「そりゃ、何か落ちがあるんでしょうけど、とりあえず買いますよ」
「当然でしょうね。普段からそういう買い物をしてるわけだからね」
「してませんよ!」
「してますよ、だって急騰した株を買ってるんでしょう?」
「それとこれとは・・・・」
 
 

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